【ゆるゆりSS】ふたりの距離 (32)(完)
1:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2023/09/07(木) 21:18:55.99:I2AyKHWk0 (1/32)
大室櫻子、古谷向日葵、中学二年の冬。
二学期の期末試験を終え、まもなく冬休みを迎えるいう少しふわついた時期に、それは起こった。
教室の前方で、教師が淡々と生徒の名前を読み上げながらテストの答案用紙を返していく。受け取って歓喜する者、落ち込む者、「うあー!」と叫んで友人と笑い合う者、じっと見つめてゆっくりと席に戻る者。その反応はまさしく十人十色といったところだ。
「……大室さん」
名前を呼ばれ、ソワソワした気持ちを必死に隠しながら教師のやや後方で待機していた櫻子は、呼ばれてすぐに答案を受け取った。
おそるおそるその点数に目をやる。
「げっ」
そこには、フィクションの作品でしか見たことのないような、現実にこんな点数をとってしまうことがあるのかというほど低い点数が、無情にも書かれていた。
たった一文字の、丸。
まんまる。ゼロ。れーてん。
名前の書き間違えで採点してもらえなかったとか、そんな粗末なものですらない。ただのひとつも正答を書けなかった、本気の0点の答案。
嘘でしょ、という気持ちがある一方で、落胆と諦めを足して半分に割ったような複雑な感情……マイナスであることだけがはっきりしている、とにかく嫌な気持ちが、ずんと胃の底に沈んでいくような気がした。
あーあ。
やばい。
本当にやばい。
ついに、こんな点数を叩き出してしまった。
(うーわ……)
テストを受けているときから薄々そんな気はしていた。だって問題が全然わからない。普通に授業を聞いていたら取れていたのであろう、基礎的な部分の問題すらわからない。唯一「もしかしたら合ってるかも」という淡い期待で書いた部分は、つまらないケアレスミスにより無情にもペケがつけられていた。今回は選択肢で書くタイプの回答がほとんどなかったのでヤマカンを張る余地もなかった。当たり前だが、歴代最低得点だ。
テスト中は半ばヤケになって、「もうこうなったらどれだけ低い点数がとれるか見てみたい」と開き直っていたような記憶もある。だが実際に引くほど低い点数の答案を目の前にしてみると、そんな強がりをする余裕も一瞬で掻き消えた。
これは確実に怒られる。向日葵にも、姉の撫子にも、母親にさえ怒られる。
ほかのひょうきんな女子のように、友人に見せびらかして笑い飛ばすことも今はできそうにない。こんなものを見せたら笑ってもらえずにドン引きされてしまうこと請け合いだ。櫻子はぺったんこの胸に答案用紙を押しつけ、わずかな前傾姿勢のまま自分の先にスススと戻った。
とても現実の出来事とは思いたくないほどのショック。しかし自分には確かに身に覚えがある。こんな点数しかとれないような答案用紙を提出したのは、間違いなく自分なのだから。
やや青ざめた顔でぺとんと着席した櫻子のことを、向日葵は心配そうに見つめていた。
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2:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2023/09/07(木) 21:22:11.29:I2AyKHWk0 (2/32)
そんなショックな出来事も数時間たてば忘れてしまえるのが、大室櫻子の短所であり、そして最大の長所でもあるのかもしれない。
0点をとったことについて割り切ったというわけではなく、本当に単純に0点をとったという事実を一時的に忘れてしまっている櫻子。当然悪びれる様子などももちろんない。
向日葵とふたりで歩く放課後の帰り道。櫻子はすっかりウキウキとした気持ちでややスキップ気味に歩いていた。
なんてったってもうすぐ冬休み。クリスマス。年末なのだ。その事実を思い出して嬉しくなってしまい、昼休みや放課後はクラスメイトたちと遊びの相談にふけっていた櫻子に、もうテストのことを思い出す余地などない。
しかし隣で歩いている少女は違う。ずっと「嫌な予感」が胸に張り付いたまま消えないのを、黙ってここまで引きずってきた。試験中、なんなら試験前からずっと、自分の成績よりも気がかりに思っていたほどだ。0点をとった当人は、その気持ちには気づいていない。
そんなこんなでふたりの家の手前まで来た頃、いつものように「じゃあねー」と帰っていきそうになる櫻子の手をぱしっととって、向日葵は言った。
「待ちなさい」
「うぇっ?」
「あなた……今日返ってきたテストの答案、何点だったんですの」
「え!?」
「ずっと気になってたんですわ。見せなさい」
「あ、いやー、学校に忘れてきちゃったかも……?」
「嘘。席についてすぐカバンにしまってたの、私見てましたわ。それだけ見ていたくない点数だったってことなんじゃないの?」
「そ、そんなことは~……」
「見せなさい!」
いつにない剣幕で迫ってくる向日葵に気圧され、櫻子はしぶしぶカバンを地面に置いて、かじかんだ手で答案を探した。
冗談みたいな点数をとってしまったこと、普通に言ったらとんでもなく怒られる。とくに今回は向日葵の忠告や協力の申し出を、面倒だからと再三跳ねのけてきたという経緯もあった。
テスト前からずっと、こうして帰り道で一緒になったりするたびにお小言を言われていた。今度のテストは範囲が広いとか、難しいとか、この時期にとる点数が今後の受験生活に大きく関わってくるだとかなんとか。
「はいはい」と相槌をうちながらも櫻子は、頭の中ではいつも別の楽しげなことばかり考えていた。「一緒に試験対策しません?」と声をかけられても、「いいよひとりでやるから!」と言って、逃げるように自分の家に入り、そのまま暖かい部屋でずっとゴロゴロしていた。
そんな経緯があるだけに、今回はどれだけ大きなカミナリが落ちてくるかわかったもんじゃない。でももういつものように逃げることもできない。どうせ今逃げても明日また言われてしまう。なんなら家の中まで勝手に押しかけられてしまう。
それだったらむしろ、今大々的にふざけて見せた方が傷は浅くなるだろう。なんてったって今回は0点なのだ。8点とか11点とかだったらリアルな数字すぎて笑えないが、今回はついに0点をとってしまったのだ。これはむしろチャンスかもしれない。
「お、驚くなよ~?」
「……」
櫻子はそう前置きしながら答案を掴むと、しゃがみこんだ体勢から一気にジャンプし、向日葵の目の前にばーんと答案を突き出した。
「じゃ~~~~ん!! れーてーーん!!!」
「っ……」
「見てみて、ほんとに0点! ほら! ついにとっちゃったの! 逆にすごくない!?」
向日葵がショックそうな表情を浮かべていたのは一瞬だけ視界に入ったが、「おふざけモードで乗り切る」という方向にひとたび舵をきってしまった櫻子はもう止まらない。こんなところで勢いを失速させてしまったら意味がない。ここはこのテンションで押し切るしかないのだ。
「いや~今まで取りそうで取ったことなかったけど、ついにって感じ! 何がすごいってさ、別にわざと取ったわけじゃないんだよ!? ほらここだって、私なりに考えて合ってるかな~って思いながら書いたんだけど、それすらケアレスミスでダメになっちゃってさ~!」
冷たい風が吹きつける、薄暗い冬の夕暮れ。自宅のすぐ前であるということも気にせず、櫻子は明るいテンションでまくし立てた。今はとにかく、怒られないことが最優先だ。
我ながらよくもまあこんなに0点をとったことを肯定的に言えるなと思いながらも、ややオーバーリアクション気味に櫻子は続けた。さながら大手企業の名物社長のスピーチかのように。
3:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2023/09/07(木) 21:23:16.44:I2AyKHWk0 (3/32)
途中からはほとんど向日葵の顔も見ていなかった。それが気付くのを遅らせた。
ふと見やると、向日葵は深くうつむきながら、冷たい地面にしゃがみこんでいた。
(えっ……?)
さすがに様子がおかしいことに気付き、櫻子が慌てて駆け寄る。
「向日葵?」
その肩に手を乗せると、ふるふると小刻みに震えているのが一瞬でわかった。そして、持っていた答案にはぱたたっと雫が落ちた。
突然雨が降ってきたわけではない。すべて、向日葵の目から零れ落ちてきたものだ。
「う……うっ……」
「ひ、向日葵!?」
「うぅ……っ……ぁ……」
「ちょ、ごめん、ごめんって……」
作戦が失敗したことのショックより何より、向日葵の動揺ぶりの方に櫻子は驚いていた。
その姿、その泣き方、泣き声。
すべてが一瞬にして遠い記憶を思い出させた。
――これは、本気で泣いているときの向日葵だ。
幼いころにはよく見たが、大きくなってからはほとんど見たことがなかった姿。
勝手に溢れ出してくる涙が止められなくて、子どものような嗚咽も止められなくて。本当は私の手を振り払いたいほどなのであろうに、そんな気力すらなくて。
ただただ悲しいという気持ちだけが胸の中にいっぱいになって、自分ではもうどうすることもできないときの、向日葵の泣き方だ。
いや……しかし、 “これほどまでのもの” は、もしかしたら初めてかもしれない。
こんなに本気で泣いている向日葵は、今まで見たことがないかもしれない。
「ひ、向日葵ってば……」
昔だったら、自分が抱きしめてあげればすぐに泣き止んでくれた。
食べていたお菓子をあげたり、おもちゃをあげたり、優しくしてあげれば、ひまちゃんはすぐに泣き止んで笑顔になってくれた。
けれど、今はもうそんな手は通用しない。
今はもう自分が抱きしめたところで、向日葵はより悲しい思いをするだけだろう。
――だって、悪いのは完全に自分だ。
(私が……悪いんだ……)
櫻子は大きな後悔と、目の前で泣きじゃくる幼馴染に対して何もできないという無力感に苛まれた。
向日葵の再三にわたる忠告を無視して、協力の申し出も面倒だからと断って、テスト前なのにずーっとずっと遊び呆けて、それでこんな点数をとってしまったのは、自分だ。
今の私に、向日葵を抱きしめる資格なんかないし、私ではもう、向日葵の涙を止めることはできない――。
その事実に気付き、オロオロと慌てることすらできずにただ固まっていると、何事かと気づいた花子が家の中から飛び出てきた。
すると、「どうしたの」と状況を聞かれるよりも先によろけながら立ち上がり、向日葵は櫻子にも花子にも何も言わないまま、逃げるように自分の家の中へと入っていってしまった。
取り残された花子は当然櫻子を問い詰める。しかし櫻子も櫻子で放心状態になっていた。
ほとんど無意識によろよろと自分の家に入り、よたよたと部屋までの階段を上がり、0点の答案を花子に見られて怒られたり呆れられたりしたところまでは、なんとなく覚えている。
けれど櫻子は、もう妹のお小言も、「撫子おねえちゃんに報告するから」という声も、受け止めることができない。
とにかく、あまりにも悲しそうに泣く向日葵の姿が、脳裏に焼き付いたまま離れなかった。
大きなトゲが胸に刺さったような気がして、けれどそれを抜く資格すら今の自分にはないんだということを痛感して、ずっとそのトゲを見つめたまま、痛みをただ受け入れていた。
――私が泣かせた。私が向日葵をあんなに泣かせたんだ。
ごめんね、ごめんねと心の中で何度も繰り返した。直接言わなければ意味がない、そして言ったところでもう何の解決にもならない謝罪の言葉が、胸の中で生まれては、口から出ることなく消えていった。
今はもう、向日葵の笑顔を思い出せない。泣き顔しか思い浮かばない。
向日葵の涙が沁み込んだ答案用紙を撫でると、すっかりふやけて固くなってしまっていた。
そんなとき、「一緒に試験対策しません?」と言ってきてくれた時の向日葵の顔が、ちょっとだけ思い出せた。
――ああ、私は。
向日葵を、裏切ったんだ――。
すると、途端に目から大粒の涙が溢れ出してきて、もうどうすることもできなかった。
「うくっ……ふっ……うぅぅ……」
自分でも自分の気持ちがよくわからないままベッドに倒れ、櫻子は情けなく泣き続けた。
これが、すべての始まりだった。
4:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2023/09/07(木) 21:24:25.52:I2AyKHWk0 (4/32)
『私はひま子の気持ち、わかるよ』
その日の夜。
櫻子は花子から渡された電話を通して、今は大学に通うために遠方で下宿している撫子から、ありがたいお説教を受けていた。
事の顛末について花子から報告を受けた……というより「どうしよう」と相談されていた撫子は、「いつかはこんな日が来るってわかってたじゃん」と呆れながらも、それでも何も言わずにはいられないようで、黙って電話を替わった妹に言葉をかけていた。
『櫻子が勉強嫌いなのはよくわかってたけど、「本っ当にこんな事態になっちゃうまでなんにもしなかったんだねあんたは」って、呆れを通り越して驚いてるよ』
「うん……」
『きっとこの気持ちがもっともっと大きくなって、ひま子と同じくらいになったら……私だって泣くと思う』
「……」
『もう中学二年なのに……というかもうすぐ三年になるのに、何やってんの』
「……ごめんなさい」
『だから私に謝っても仕方ないんだって。ひま子に言いなよ……ってか、本当はひま子に謝るのも違うんだよ。あんたが勉強しなくて大変なことになって、そのとき困るのは未来の櫻子だけなんだから』
ずっと無気力に泣き続け、ほとんど夕飯を食べることもなく打ちひしがれていた櫻子は、静かに姉の声に耳を傾けていた。
花子はいつもだったらもう寝ている時間だろうが、きっと今もこちらのことを気にして、隣の部屋で眠れずにいることだろう。
『はぁ……ま、今はいいや、ちょっと忙しいし。今度冬休みでそっち帰るの。詳しい話はまたその時にするから』
「……」
ため息交じりの姉の声が、より胸の内を重くしていく。
『……櫻子……あんたさ、ほんといつになったら気づくの』
「っ……」
それだけ言って、静かに通話は切れた。
櫻子は力なくスマートフォンを下ろし、うつむきがちに部屋の中の虚空を見つめる。
気づく?
何に?
わかるようでわからないその言葉の意味を考えながら、櫻子はとにかく向日葵に謝りたかった。
明日、一緒に学校に行ってくれるだろうか。
「向日葵……」
真っ暗な部屋の中、ベッドのへりに腰掛けながら、櫻子は向日葵の泣き顔のことを思い続けていた。
どうして、どうしてあんなにも泣いていたのだろう。
べつに今までにだって、0点とまではいかなくても、低い点数をとったことは何回もあったのに。
今になって、急にどうして?
ふと足元に肌寒さを感じて、毛布の中にもぞもぞと身体をすべりこませた。思えば今日一日、なんだかずっと寒かった。
早く暖かい季節にならないかなと思いながら、ひんやりとした枕を抱きしめる。そうしてわかった。
――ああ、そうだ。冬が終わったら春になるんだ。
次の春には、私たちは中学三年生になって、そうしてまたもう一年経って冬を超えたとき、私たちは高校生になるんだ。
私と向日葵は、そこで離ればなれになるんだ。
私はこんなバカだし、向日葵はきっと頭のいい高校に行くし、もう一緒に学校に行くことはなくなるんだ。
ずっと続いてきた私たちの腐れ縁も、もうここまで。
頭の良し悪しとか関係なく、こんなに性格も何もかもが違う私たちが一緒にいられるのは、もうここまで。
いつの間にか私が乗っていた車両のレールは、向日葵が乗っているものとは別になっていた。
向日葵はきっと、同じレールに乗ってほしくて、ずっとずっと私に手を差し伸べていたのに。
私はそれに気づかず、自覚もなく迷子になっていて、いつの間にか、どこに行くのかもわからないレールに乗るしかなくなっていた。
このふたつのレールが交わることは、たぶんもうない。
『……櫻子……あんたさ、ほんといつになったら気づくの』
最後に放たれた姉の言葉の意味が、今になってようやくわかったような気がした。
櫻子の目からまた涙が零れ落ち、枕にスッとしみ込んでいく。
胸の中にあるのは、やっぱり向日葵に対する、「ごめん」という気持ちだった。
(向日葵……っ)
ごめん。ごめんね。
震えるほど寒い夜。櫻子は枕に顔をうずめ、声にならない声で、謝罪の言葉を何度も繰り返していた。
力尽きて眠ってしまうまでずっと。
―――――
――――
――
―
5:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2023/09/07(木) 21:25:23.91:I2AyKHWk0 (5/32)
翌日。
ほとんど深く眠れないまま迎えた朝、向日葵と一緒に学校に行こうと思ったが、なかなか家から出てこない。数分経っても出てこないのでおかしいと思って家の人に聞いてみると、用事があって先に行ったようだと言われた。
急いで学校に向かうと、そこで初めて今日が二学期の終業式であるということを思い出した。どこか学校全体のムードも浮ついているように感じる。しかし櫻子はそれどころではなかった。
向日葵はというと、普通に教室にいた。一見いつもどおりに見えたが、なぜか櫻子の方を見ようとしない。
視界に入っていないわけではなさそうだが、明らかにわざと意識しないようにしていることは櫻子にも肌で感じ取れた。
やっぱり、怒ってるんだ。私は嫌われたんだ――。櫻子は途端に弱気になってしまい、結局朝の段階では声をかけることができなかった。
終業式が終わって、ホームルームも終わって、いよいよ放課後。
今日一日ずっと目を合わせてもらえなかったが、一緒に帰ることくらいはできないだろうかと向日葵の付近でうつむいていると、うまい具合にちなつがパスを出してくれた。
「向日葵ちゃんと櫻子ちゃんはこのまま一緒に帰るの?」
「えっ? ああ、うん」
反射的にそう返事してから向日葵の方を見ると、今日初めて一瞬だけ目が合った。
向日葵は肯定も否定もせず、あかりとちなつに別れを告げて、そのまま教室を出た。櫻子もその後を小走り気味についていく。
去り際に教室の中を振り返ると、あかりとちなつが少し困ったような笑顔で「早く仲直りしてね」とでも言いたげに手を振っていた。
向日葵はなるべくいつもどおりになるよう振舞っていたが、ふたりの様子が今日一日ずっとおかしかったことは、とっくに伝わっていたようだ。
友人たちの協力を受け、一緒に帰れる大義名分を得ることはできた。しかし当然ふたりの間に会話はない。
いつもより少しだけ早歩きで帰る向日葵と、うつむきながらそれに着いていく櫻子。
何か話さなければ。けれど言葉が出てこない。このままでは家についてしまう。その前に、何でもいいから伝えなければ。
「……っ、……ごっ」
「……」
「ごめんっ、向日葵!」
カバンを握る手いっぱいにぎゅっと力をこめ、櫻子は言葉を絞り出した。
たどたどしくなってしまったが、なんとか切り出すことはできた。
向日葵は一瞬足をとめたが、またすぐに元の速さで歩き出した。絶対に聞こえているはずなのに。
櫻子はその隣を歩きながら、後に続く言葉はないかと探しあぐねる。その様子を見かねたのか、今度は向日葵の方から低めの声で話し始めた。
「……なんで、謝るんですの」
「え、だって……昨日の答案……」
「あなたが自分で勉強しない道を選んで、あなたが自分で0点をとって……それでなんで私に謝るんですの」
「……」
向日葵の顔を見ることができない。
昨日の夜、撫子にもずっと同じようなことを言われていた。
謝るのは違うんだって、さんざん聞かされたけど、今は謝罪の言葉しか出てこない。
もう、謝って許してもらえるような段階じゃないんだ。櫻子がそう痛感して黙りこくっていると、向日葵はふと歩みを止めた。
おもむろに方向転換して、いつもは曲がらない交差点を曲がっていく向日葵。櫻子は何事だろうと思いながらも後ろを着いていく。どうやら向かっているのは近所の公園のようだった。
きっとあのまま家の前まで着いてしまえば、また昨日のように心配した花子や楓が出てきてしまうからだろう。
今日一日ずっと無視していたくせに、今の向日葵は、ふたりきりで話がしたいようだった。
6:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2023/09/07(木) 21:26:20.13:I2AyKHWk0 (6/32)
公園について早々、向日葵は冷え切ったベンチに座ることもなく、葉の一枚もついていない木の下に立ちながら呟いた。
「……あなた、どこの高校行くんですの」
「えっ……」
冷たい風が足元から身体を冷やしていく。
この質問は、今までにも何度かされたことはあった。
具体的なビジョンなどない櫻子は、そのたびに何とかはぐらかしてきたけれど、今思えばこの話をするとき、向日葵はどこか悲しそうだった。
――別に、どこだっていいじゃん。
向日葵には、関係ないでしょ。
今までだったら、そんなことを言って突き放していたのかもしれない。
けれど今こんなことを言ったら、また昨日みたいに向日葵を泣かせてしまうということは櫻子にもわかっていた。
泣かせているのは、ほかでもない、自分だ。
「……」
進路の話は嫌いだった。
将来の夢について考えるのが嫌になったのはいつからだろう。
小さいころは、未来というのはいつだって明るいものだと思っていた。
なのにいつから、未来のことを考えるのが憂鬱になってしまったのだろう。
「……なんとか言いなさいよ……っ」
「うん……」
「櫻子!」
「っ……」
「言っておきますけど、私はあなたのために、志望校のランクを落とすなんて……できませんからね……っ!」
今にも泣きだしそうな震える声を聞き、はっと顔を上げる。向日葵は目を赤く充血させ、悲痛な表情で訴えかけていた。
櫻子は無性に嫌な気持ちになった。
向日葵の言葉に腹が立ったわけではない。向日葵にこんなことを言わせてしまう、こんな顔をさせてしまう、自分のすべてが嫌になっていた。
(そんなこと……言われなくてもわかってるよ……)
それは、いつか言われるんだろうなって、ずっと思っていたこと。
しかしいざ実際に声に出して言われると、何か「決定的なもの」をつきつけられたような、胸が詰まるような思いが全身を駆け巡った。
すべては現実から目をそらして、何もしてこなかった自分が悪いんだ。
もっと早くに気付いて、もっと早くに頑張っていたら、このセリフを言わせない未来にできたかもしれないのに。
その努力すら放棄したのは、ほかでもない自分なんだ。
向日葵はまたぐすぐすと泣き出し、そしてしまいには櫻子を置いて、公園から走り去ってしまった。
櫻子にはもう、それを追いかける気力も残っていなかった。
(……最低だ)
――私は、最低だ。
私はいつの間にか、大切な幼馴染を泣かせる、どうしようもない人間になっていたんだ。
数分ほど経ってから、向日葵が走り去っていった方角を見やる。当然、もうそこには誰もいない。冷たい冬の薄闇だけが、ただそこにある。
なんだか、もう二度と向日葵に会えないような気がした。
なんだかもう二度と、向日葵とは会ってはいけないような気がした。
(……ごめんね、向日葵)
そのまま周囲が真っ暗になって、心配した花子から電話がかかってくるまで、櫻子はずっと公園に立ち尽くし、ぽろぽろと涙を落とし続けた。
向日葵からもらったマフラーは、すっかり冷たく濡れてしまっていた。
7:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2023/09/07(木) 21:29:02.69:I2AyKHWk0 (7/32)
撫子も帰省して久しぶりに賑やかになると思いきや、今年の冬休みの大室家は静かなものだった。
理由はもちろん、一家で一番うるさい櫻子に元気がないこと。
姉や妹がリビングでくつろいでいる間も、櫻子は部屋に閉じこもったままだった。
12月24日。クリスマスイブ。
櫻子はこの日、終業式前に友人と交わしていた遊びの約束をキャンセルし、そのほかに入っていた冬休みの予定もすべて断った。
あのときの向日葵の泣き顔を思うと、とても遊んでいられるような気分ではなかった。
今はとにかく勉強をしなくてはいけない。夜、櫻子はとりあえず机に向かい、冬休みの宿題に手をつけてみた。
まともに開いたことのなかった問題集の最初のページを開き、グッグッと手で押さえて折り目をつけ、一問目から順番ににらめっこをしていく。
しかしすぐにわからない問題にあたって、あえなく挫折。持っていたシャープペンをノートの上に転がし、ぐでんと机につっぷした。
(だめだ……全然わかんない……)
問題の答えもわからなければ、勉強の方法さえもわからない。つまずいたときに何をすればいいのか、ほかのみんなはどうやって解決しているのか。
そもそもこんな宿題をやったところで、受験に繋がる成績の向上が見込めるのだろうか。何もかもがわからなさすぎて、それすら心配になってきた。
ふと櫻子の目に卓上カレンダーが目に留まった。10月くらいからめくることさえしてこなかったそれを手に取り、12月のページを見てみる。
今日が12月24日。あと一週間で来年になる。
受験が具体的に何月ごろから始まるのか、そんなこともわかっていない櫻子だったが、とにかく冬が本番だということは今年受験生の綾乃たちから聞いていた。
つまり、だいたいあと一年。一年間で向日葵と同じレベルにまで辿り着けなければ、離ればなれになってしまう。
一年が長いようで短いことは、14年間生きてきた中で薄々気づきつつあった。だって去年の冬から今まで、何かを成し遂げた記憶というものがほとんどない。ずーっと遊んでいただけであっという間に過ぎ去った気がする。
このスピードで来年も過ぎていくのだとしたら、向日葵に追いつくなんて到底無理なのではないか。
そもそも、目の前の宿題すら10分と集中力が続かない自分に、一年間も頑張り続けるなんてことができるのだろうか。
「……っ」
階下からうっすらと聞こえてくるテレビの音にまぎれて、時計の秒針の音がコチコチと部屋の中に静かに響く。
この音があと何回刻まれた時、私と向日葵は決定的に離ればなれになってしまうのだろう。
焦燥と不安が募っていく。
コチ、コチ、コチ。
「……ぁああっ!」
無性に胸の中に嫌な気持ちが渦巻いて、櫻子は持っていた卓上カレンダーを壁にたたきつけた。
ばすんとカーテンにぶつかって、カレンダーは力なく床の上でぱたりと畳まれる。
(無理だよ……無理に決まってるじゃん……!)
ぐしゃぐしゃと頭をかきむしる。
一年で向日葵に追いつくことも、一年間頑張り続けるなんてことも、今の自分なんかにできるわけがなかった。
(だいたいなんでだよ! 向日葵と離ればなれになったって……いいじゃん別に……!)
櫻子はベッドにつっぷし、そのままぼすんぼすんと腕を叩きつける。
自分でも自分の気持ちがわからない。
どうして自分はそんなに向日葵と離ればなれになることが嫌なのか。
むしろ一緒の高校に進める可能性の方が限りなく低くて、どう考えても高校で離ればなれになるってことはずっと昔からわかっていたはずなのに、なぜこんなにもその現実に苛立つのか。
向日葵と同じ高校になんか、行けなくたっていいのに。
「向日葵と一緒になんか……ならなくたっていいのに!!」