1: 2025/04/17(木) 06:26:45.29
4/16(水) 6:32 中央公論 構成:髙松夕佳 撮影:霜越春樹
https://news.yahoo.co.jp/articles/97b598e9e83afa4027a6ae1a3a224cefc9575ace三宅香帆氏(左)、竹内 洋氏(右)
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20250416-00010000-chuokou-000-1-view.jpg 2003年に刊行された中公新書『教養主義の没落』が、シンガーソングライターの米津玄師さんから「べらぼうに面白かった」と評されたのを機に、今年に入って3回の増刷を重ねている。著者の竹内洋さんと、同書に触発された『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)で「新書大賞2025」の大賞を受賞した三宅香帆さんが、教養について語り合った。
(『中央公論』2025年5月号より抜粋)
■教養=権威主義は過去のもの?
三宅》『教養主義の没落』の再ヒット、おめでとうございます。
竹内》ありがとうございます。私自身もびっくりするばかりで、狐につままれたような気持ちです。(笑)
三宅》先生は『丸山眞男の時代』や『立志・苦学・出世』などのご著書で、さまざまなアプローチから教養を論じてこられました。
竹内》1999年刊行の『学歴貴族の栄光と挫折』を書くなかで、旧制高校生がいかに教養主義的だったかを痛感したので、次のテーマは教養主義か高等遊民かのどちらかにしようと思って書いたのがこの本です。友人からは「あんたの本のタイトルは『挫折』とか『没落』ばかりで後ろ向きだ」と言われましたが。(笑)
三宅さんの書名『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はご自身の案だと伺いましたが、私の本のタイトルと「読まなければならない本、というものがあった…。」という卓抜な帯文は、編集者のアイデアです。
三宅》その本が今再び、米津玄師さんはじめ若い方に刺さっていることについてはいかがですか。
竹内》浅田彰氏が1983年に出した『構造と力』のブームを最後に、本を読まない大学生が増えました。ただ拙著の刊行当時、教養という言葉には「君は教養がないね」といった言い方に象徴される、「上から目線」の暴力性がまだ残存していた気がします。教養にまつわるそうした権威主義的イメージが、世の中から消えたのが現在ではないでしょうか。むしろ「そんな時代があった」ことにノスタルジーを感じ、「『読まなければならない本』がある教養主義って、なんなのだろう」と素朴な興味を抱いた若い人が読んでくれているのだと思います。
三宅》2000年代初頭といえば、人文系では東浩紀さんに代表されるゼロ年代批評ブームでした。私は学生時代、少し遅れてゼロ年代に出たさまざまな本を読みながら、今後、教養を再発見して楽しむ動きが来るかもしれないと感じていました。
教養という言葉を権威主義的だとして嫌厭した上の世代に比べ、米津さんや私の世代には、そうした抵抗心がありません。知識も教養もこだわりなくフラットに楽しみたいと思っているから、『教養主義の没落』が新鮮に映るのだと思います。
音楽の世界にも、一昔前までは「聴かなければならない音楽、というものがあった」のでしょう。米津さんはネット出身の方なので、思いあたる節があったのかもしれません。
竹内》往時の教養主義はまさしく「強要主義」でしたが、今世紀に入ってからは「今日、用がない」という意味で「キョウヨウがない」と茶化す冗談が流行るなど、「君は教養がないね」式の権威主義的な教養観を無化する傾向が進み、おっしゃるようなこだわりのない状態にたどり着いた。そう考えると頷けます。
三宅》教養主義の中核は読書で、本=教養なんですね。人文書中心の読書を通じて純粋に人格を高めることを目的に本を読んだ時代は確かに存在しましたが、比較的早期、大正時代あたりで終わったのかなと思います。なのに本=教養というイメージだけは今もしぶとく残っている。先生の著書を読んで、それはなぜなんだろう、と逆説的に考えました。
竹内》本当の「教養」が残ったのが今なのかもしれませんね。かつての教養主義には邪心がありました。インテリとして認められたいとか、偉い人なら難しいことを言う必要があるとかの、立身出世と絡んだエリート文化の要素があったわけです。そしてエリート文化だったから、大学が大衆化していくなかで滅びました。でも今はそうした下心や雑念が消え、本来の柔らかな理想主義や人格主義に戻ってきたのではないか。
(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)