【ウマ娘怪文書】ドリームジャーニーとの旅路が一区切りついた頃。競技者として、トレーナーとして次の一手を考えながら過ごす、比較的緩やかな時期。夜。私たち二人は、極端に煌びやかな劇場を前にしていた。
15: 名無しさん(仮) 2024/07/15(月)21:11:59
らしくもない声を出しながら、彼女の歯が突き立てられている。これでも手加減しているのだろう。だとしても、相手は力強いウマ娘……嫌でも皮下の肉や血管を意識してしまう。
行く当てもなく、滑稽に自分の両手が視界の端をただよう。
「じゃー、にぃ……」
気が動転して、思わず名前を呼ぶと噛む力が強まる。
現実感が無かった。この劇場も、痛みも、伝わってくる荒い鼻息も。抗う術なんてない。ただ彼女の背中に手を回して耐えるしかなかった。
滴るのは血?それとも唾液?
震えているのは私?この子?
いつまで続く?
わからない。
こわい。
16: 名無しさん(仮) 2024/07/15(月)21:12:14
押し寄せる感情で引き裂かれそうな情緒は、深く親しんだ香水だけがつなぎ留めていた。あの時貰った、お揃いの香りがわかるうちはまだ、正気の淵で踏ん張っていられた。信頼してる貴方なら、怖くても大丈夫だって。
「はふ……」
ほんの数分だったのかもしれないし、数十分掛かったのかもしれない。ジャーニーが離れたのを感じ、目を開ける。
すっかり前髪が乱れ、手の甲で口を拭う姿に何も言えなくて。しばらくそこで、無言で見つめ合った。
胸を内側から叩くような心臓の音だけが耳の中で鳴っていた。
やけどみたいなひりつく痛みが、円形にべったりと首に張り付いている。
これが印……なのか。
「……」
ジャーニーはなんというか、自分でも驚いてるように見えた。
17: 名無しさん(仮) 2024/07/15(月)21:12:28
さっきのような圧力を忘れた、なにか力の抜けたような顔だった。
「ねぇ……大丈夫?」
固まってしまった自分の教え子がどうしても心配で、そんな言葉が口を割って出た。
「……ふふッ」
固まっていた顔が、影の向こうでほころぶのがわかった。
「なんで笑って……」
「逆ではありませんか?普通」
口を押えて小さく笑うジャーニー。たしかに噛まれたのは私の方ではある……そうなのだが。
18: 名無しさん(仮) 2024/07/15(月)21:12:39
「こんなに直接的なのジャーニーらしくないなって……心配なの。もしかしてさ」
私は鈍いし察しが悪い。それでも、これだけ長く一緒にいれば、少しくらい教え子の事は理解できるようになったつもり。
「不安に、させちゃった?」
「……」
するとジャーニーはまた黙り込んでしまった。見えたかと思った本心はまたどこかへ沈んでいった。
「大丈夫。私にとってジャーニー以上に大切な人なんていないから」
私はただ正直でいる事しかできない。貴方みたいに思慮深くないから。ああ、でもここまで言い切って間違っていたらどうしよう。だとしたらとてつもなくカッコ悪い。
19: 名無しさん(仮) 2024/07/15(月)21:12:53
「たしかに、私らしくない」
もう一度訪れた長い沈黙を、か弱い声が破った。
すっと眼鏡を外した顔は、今まで彼女が纏っていたいろんなものが抜け落ちた素直な顔だった。
「……らしくないついでに、しばらくこうさせてください」
ぎゅうっと、顔を私の胸元に押し当てて、抱きしめられる。こそばゆいような、気持ちいいような力加減。
今日はジャーニーの知らない面をいくつも知った。怖い面、弱い面……それから、こんなにこの子が軽い事。全部身をもって知れた。
気持ちが通じたと思うと、変な話ではあるけど、安心した。
「もうオペラ始まっちゃうよ……?」
「いいから」
20: 名無しさん(仮) 2024/07/15(月)21:13:09
開演を告げるブザーが鳴る。子供のように縋り付く彼女を抱きしめ、その小さな背中を撫でた。
初めてジャーニーより大人な気分だった。
†
「まあ、あなたがジャーニーのトレーナーさん?」
「はいっ、一応、トレーナーをやらせてもらってます……」
オペラというのは長いため、こうして合間に休憩時間が設けられる事も多いそうだ。ホワイエまで戻ってくるとジャーニーの交流が再開した。
違うのは、私がジャーニーと一緒にセレブの方々とおしゃべりをしている所、だ。
「緊張しすぎですよトレーナーさん、あの方々も私たちと同じ観客です」
十分な紹介と世間話を終え、マダムたち三人組と別れる。
21: 名無しさん(仮) 2024/07/15(月)21:13:23
「でも、やっぱり違うよ!オーラっていうか、所作もそうだし……」
「おや、ではこれから慣れていきましょうか」
もちろんこれ以上に危険は人に出会ったことはあるけど、明らかなセレブ相手はまた違う心労がある……!
でも、今まで外から見るだけだった彼女の世界に、入る事が許されたみたいだった。それだけ信頼してくれたという事なら、とても嬉しい。
「私をいくつもの勝利に導いてくださったトレーナーさんですから。皆様にも知っていただかないと……ふふッ」
ジャーニーの歯型は、当然おもいっきり見える位置に残っていた。隠すためのスカーフもなく、偶然持っていた湿布を貼ってとりあえず隠した。
「……」
それがどうしても気になって、ジャーニーが見てない時に湿布の上からなぞってしまう。
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