【ウマ娘怪文書】ドリームジャーニーとの旅路が一区切りついた頃。競技者として、トレーナーとして次の一手を考えながら過ごす、比較的緩やかな時期。夜。私たち二人は、極端に煌びやかな劇場を前にしていた。
8: 名無しさん(仮) 2024/07/15(月)21:10:22
「ふむ……そうですね。ならば仕方ない」
状況はすっかり変わった。男性はジャーニーに押され気味だ。すっかり安心した私は、人前でなければその場に脱力してへたり込んでいただろう。
「さようなら。これ以上は貴女のボディガードに噛まれてしまいそうだ」
この人もジャーニーの知り合いなのだろうか。手を振りつつ、男性は離れてゆく。周りで歓談が続く中に、ジャーニーと二人残された。
「……私たちも席に向かいましょうか。バルコニー席ですよ」
「え、まだ時間あるけど――」
「いいから、行きましょう。ね?」
9: 名無しさん(仮) 2024/07/15(月)21:10:35
この子は怒っても耳を絞る事がないし、嬉しくても尻尾がブンブン揺れる事もない。感情があまり表出しない方だというのは三年一緒に過ごして理解している。
しかしこの時、通り過ぎるジャーニーの尻尾が、ぐるっと脚にまとわりついてきた。こちらを見る流し目と合わせて「はやくこちらに」とでも言いたげで。私は何も言えず、彼女の後を追う事しかできなかった。
†
あの「オペラ劇場の壁に埋め込まれてるみたいなカーテン付きの席」って何なのだろう、と映画なんかで観るたび思っていた。
「まさか本物に座れるなんて……」
感慨深い。なるほどこれがバルコニー席。えらい人が座ってそうなイメージだったので、大人げないけれど、内心はしゃいでしまう。半分個室みたいなものだし、ちょっとしたお姫様気分。
この位置からだと待機してるオーケストラとか、まだ埋まり切ってない地上階の席なんかが丸見えだ。
10: 名無しさん(仮) 2024/07/15(月)21:10:50
シートに深く腰掛け、リッチな雰囲気を吸い込もうとした――。
「オペラが始まる前に」
隣に立つジャーニーの発した言葉が、浮かれた私を制止するように響く。
下界から聞こえる他の観客の声が遠く聞こえるほど、意識をこの場に縫い留められた。
「いくつか質問させてください、トレーナーさん」
「……うん」
彼女が大きく見えるのは、私が座っているからだけではないように思えた。
「先ほどの男性……彼になにかされましたか?」
細い指先で、私の肩を撫でながら問うその低い声。ソクゾクしたものを感じて思わず背筋が伸びる。
11: 名無しさん(仮) 2024/07/15(月)21:11:02
「ううん……」
「そうですか」
満足気なトーン、少なくともある程度はそう聞こえる。
「では逆に。あなたが彼になにかしましたか?」
頭を振る。そんなわけない。
「急に誘われて慌てただけだよ、断ろうと思ってた」
「ええ……わかりました」
「あなたらしい」と付け加え、ジャーニーはステージ側に歩いていくと、カーテンをつかみ、閉めた。ここの照明は弱く、一気に闇がバルコニーを満たした。
12: 名無しさん(仮) 2024/07/15(月)21:11:14
「もしかして……怒ってる?」
「怒る?まさか」
強まった口調。標本のように、私は座席にピン止めされてしまった。振り返った目はそれほど鋭く、暗い中でもそれは目立った。
これじゃあまるで、尋問だ。でも、そうだとしたら私の罪はいったい何?
「……私の対策不足だったと言いましょうか」
手を後ろに組みすたすたと私に近づいてきて、見下す。
「貴方は、あまりにも無防備だ」
ここまで直接的なジャーニーは初めてだった。膝立ちでシートに乗り、肉食獣がするように私の目を覗き込む。逃げ場どころか抵抗の余地も無いだろう。
13: 名無しさん(仮) 2024/07/15(月)21:11:30
「ジャーニー……?」
「ですから」
首筋をなぞられ、身体が勝手に反応する。可愛がるような指の動きは、なぜだか注射の前の消毒を思い起こさせた。
「一つ、印をつけさせていただきます。よろしいですね?」
眼鏡の奥でぎらぎら光る瞳。言われている事がわからない。でも。
「貴方が、望むなら……」
怖いけど、貴方がそう言うなら、きっと必要なものだって私は信じる。
「いい、よ」
14: 名無しさん(仮) 2024/07/15(月)21:11:44
一度口に出せばそれは始まりの合図。
自分を何に明け渡したのか。後戻りなんてできないに決まっているのに、何を言っているんだ。後悔しないか、なんて自問が湧き出る。
ジャーニーは無言で頷き、顔を寄せてくる。髪が顔に当たってこそばゆい。
「開演前ですから、なるべく我慢してくださいね。聞かれたくなければ」
耳元で、そう囁いたかと思うと。
「いっ……!?」
痛み。鈍くて強いそれが首を突き刺した。前歯、犬歯、あとはわからない。真っ白な刃が肌に沈み込むと同時に、熱い息を感じる。
「あぐ……」