【ウマ娘怪文書】未来に期待しているわけではない。さりとて、人生に絶望しているわけでもない。ただこうして、花壇を手入れしながら漠然と日々を過ごしている。エアグルーヴは隣にしゃがみこんで土の匂いを嗅ぎ、柔らかな花弁をそっと撫でた
1: 名無しさん(仮) 2025/03/29(土)22:33:34 0
未来に期待しているわけではない。さりとて、人生に絶望しているわけでもない。
ただこうして、花壇を手入れしながら漠然と日々を過ごしている。
「ふん、悪くない。いつもながら丁寧な仕事だ。私生活もそれくらい真面目ならいいのだがな」
ビオラとマーガレットが彩りを与え、水仙とラベンダーが立体感を生み出す。
エアグルーヴは隣にしゃがみこんで土の匂いを嗅ぎ、柔らかな花弁をそっと撫でた。
「明日、行く。特別することはないが、ペットボトルのラベルだけは外しておけ」
俺はガーデニングばさみを握り、花が咲き終わった茎を切除する。
ちょきん、ちょきん。盛りを過ぎた枝を残しておくとろくなことがない。
2: 名無しさん(仮) 2025/03/29(土)22:33:52 0
翌日。マンションの一室。俺はディスプレイにかじりついて資料を作成している。
飲み終えた500mlペットボトルを、ラベルだけ剥がして後ろに放り投げる。
部屋の惨状は、できるだけ口にしたくない。一つだけ言えるのは、足の踏み場もないということだけだ。
呼び鈴が鳴り、玄関の鍵が回される。俺は反応しない。合鍵は渡してある。
私服で来たエアグルーヴは、何も言わずに洗面所で着替え始める。
体操服にブルマが、彼女の清掃スタイルだ。
ゴム手袋を手にはめると、重曹とカビキラーを持って浴室に入っていった。
その間も、俺はキーボードを叩き、一度も目線を外すことはなかった。
3: 名無しさん(仮) 2025/03/29(土)22:34:11 0
「貴様は座っているだけで高みの見物か? 何か手伝えることを探せ」
「掃除をさせているという負い目が貴様にはないのか、恥を知れ」
こんなことは言われない。俺が動いても足手まといになるだけだとわかっている。
ハンディモップでデスク周りの埃を落とそうとする。俺はそれを察知してノートPCでの作業に切り替える。
それに、エアグルーヴもまんざら嫌という訳ではない。むしろ自分から楽しんでいる節すらある。
彼女にとって掃除とはマイナスをゼロに戻す行為ではなく、ストレスを解放する創造的な儀式なのだ。
だが、もちろん最初からこうだったわけではない。ここに来るまで数多のいざこざがあった。
「なっ……なんだこの部屋は! まるでゴミ屋敷ではないか! 貴様、これはどういう……!」
初めて部屋にエアグルーヴを招待した時の唖然とした表情を忘れることができない。
4: 名無しさん(仮) 2025/03/29(土)22:34:29 0
「"理想"を体現するのが私たちの使命だ! こんな体たらくで後輩たちに顔向けできるとでも思っているのか!?」
エアグルーヴはまったくの正論をぶつけてきた。俺は苦笑いしながらぽつぽつと弁解した。
・他人に迷惑をかけないようにする。
・トレーナー業と花壇の管理だけは手を抜かず真面目にやり遂げる。
・身だしなみはきちんとする。眉を整え、髭を剃り、爪を揃えて恥ずかしくない振る舞いを心掛ける。
無論、それで納得するエアグルーヴではなかった。デートはお流れとなり、代わりに大掃除となった。
それからも、数か月に一度の頻度でエアグルーヴはやってきた。
何度片付けても、何度整理整頓を繰り返しても、次に来るときには嵐の後のように滅茶苦茶になっていた。
次第に、エアグルーヴは何も言わなくなった。諦めたわけではない。むしろ一層、清掃に没頭するようになった。
汚されれば汚されるほど、彼女の中の闘争心が奮い立たされ、雑巾を持つ手に力がこもるようだった。
5: 名無しさん(仮) 2025/03/29(土)22:34:47 0
「帰るぞ。燃えるゴミの日を忘れるな」
久方ぶりにフローリングの床を見た。大きなゴミ袋が五つ、山と積まれている。
「ありがとう、エアグルーヴ」
「感謝をする前に、貴様にはすることがあるだろう」
俺は苦笑いをする。もし普段から綺麗にしていたら、デートに行く時間も取れたというのに。
「たわけが」
玄関まで見送ってから、俺は何度も反芻した思考に回帰する。
未来に期待しているわけではない。さりとて、人生に絶望しているわけでもない。
なんとなく、うっすらと自分を見放している。絶えず虚無感が襲い、軽いセルフネグレクトに陥っている。
ただ、エアグルーヴがいればいい。そして、彼女を飾る花壇の花を整えてあげればいい。
盛りを過ぎた枝は、成長を阻害する。不必要な存在は、根元から切り取ってやらなければならない。
6: 名無しさん(仮) 2025/03/29(土)22:35:06 0
後日、ひどい風邪でベッドから起き上がれなくなった。体温計は40度を超えている。
タイトなスケジュールが災いしたのか、不健康な食生活がたたったのか、どちらかは分からない。
全身を寒気が襲い、頭ががんがんと割れるように痛い。絶望していたその時、かちゃんと玄関の鍵が回る音がした。
廊下を歩く気配だけで、エアグルーヴが来たということがわかる。風邪を引いたなどとは、LANEでも伝えていなかったのに。
両手にスーパーの袋を下げて、俺の顔色を伺う様子は、心配というよりも怒りの色が勝っているように見えた。
台所で手際よくおじやを作り、俺の上半身を起こすと、ぶっきらぼうな調子で食べさせてくれた。
部屋中に散乱したカップ麺の容器や、プロテインバーの袋、レッドブルの空き缶を一瞥する。
エアグルーヴはそれを拾うと、くしゃりと勢いよく握りつぶしてゴミ袋に入れていった。
「たわけが……」
7: 名無しさん(仮) 2025/03/29(土)22:35:29 0
「エアグルーヴ、もう帰った方がいい。俺よりも君が大事だ。うつしてしまったら面目が無くなる」
その言葉がトリガーになったようだった。
エアグルーヴは俺の胸ぐらをつかむと、がくがくと乱暴に体を揺さぶった。
「馬鹿が……なぜ貴様は自分を大切にしない! 花や木にあれほど愛情を注げるのに、なぜ自分には無頓着なんだ!」
唇が触れ合いそうな距離で説教される。汗でぐっしょり濡れた俺の寝巻に皺が寄る。
「貴様を想う者がそばにいて、これほどまでに心配しているんだぞ! "女帝"たる私が直々に手を尽くして、世話を焼いているんだぞ! それなのになんだ、貴様は!」
その体はかすかに震えているようだった。一瞬、泣いているのかと思ったが、すぐに誤解だと気づいた。
やり場のない怒りに打ち震えている。無力感に苛まれている。そんなことをする必要はないのに――。
エアグルーヴの両肩は小さかった。手を回せば、簡単に抱きしめられる気がした。
「たわけが……たわけ、大馬鹿だ、貴様は……!」
しかし、自分にはその資格がないように思えてならなかった。