1: 征夷大将軍 ★ 2023/04/04(火) 07:02:42.06 ID:aSy3GbNb9
集英社オンライン2023.04.01
https://shueisha.online/entertainment/119244 「栗城さんの登山の技術って、どの程度のレベルなんですか?」
「栗城のことですか? あまり話したくないですねえ……」
栗城さんが亡くなって2カ月ほど経った2018年7月。私は彼のエベレスト初挑戦を支えた山の先輩、森下亮太郎さんに電話をかけていた。そのときは、低く発せられたこの言葉とともに取材を断られたのだ。森下さんははしゃぐタイプではないが、ユーモアを持ち合わせた人だった。私は栗城さんと森下さんが支笏湖畔の凍った滝でトレーニングをした際、森下さんにこんな質問をしている。
「栗城さんの登山の技術って、どの程度のレベルなんですか?」
何とも味わいのある笑みを、森下さんは浮かべた。
「えっ! 言っていいのかなあ?」
あのときの笑顔と受話器から伝わる警戒するような雰囲気が、私の中ではつながらなかった。
「正直、彼にはいい感情を持っていないので……」
北海道の7月は登山のベストシーズンだ。山岳ガイドの森下さんは多忙を極めていた。私は「秋になって時間ができたら読んでください」と、ブログのアドレスを森下さんにメールで送った。
年が改まってダメ元で電話をかけてみると、「会ってもいい」と言う。私のブログを読んで「話してもいいかな」と思ってくれたそうだ。ありがたかった。
森下さんの自宅に近い江別市内の居酒屋で待ち合わせた。山の会を主宰している鈴木暢さんが店主で、栗城さんも大学時代に森下さんやG先輩と一緒に何度か訪れたという。酔ってご機嫌になると、スッポンポンになって踊っていたそうだ。
■2回目で登頂に成功したほうがドラマチック
私が森下さんに会いたかった一番の理由は、森下さんが初回に続き、2010年、栗城さんの2回目のエベレスト遠征でも「副隊長」を務めていたからだ。
2009年の初挑戦は、標高7850メートルでの敗退だった。8848メートルの山頂とは、ほぼ1000メートルの開きがある。森下さんは、栗城さんがこの標高差を克服できると思って同行したのだろうか?
「いや、仕事です」
あっさりと森下さんは言った。
「9月下旬ぐらいになると、北海道の山は霙とか降って閑散期になるんですよ。その時期に仕事が入るのはありがたいので。ボクもプロなので、飛行機代は出すからボランティアで来てくれと言われても行けないです。栗城を認めているわけではありません」
「登れるとは思っていなかったんですね?」
「うーん」と、森下さんは少し考えた。
「彼が高所に超人的に順応できて、プラス、風がなく快晴、すべての好条件が揃えば、可能性は低いけど、もしかしたら……ぐらいですかね」
実は、と森下さんは続けた。
「1回目エベレストに行ったとき、あいつ、ボクにこう言ったんですよ……今回は登れなくてもいいと思ってる、2回目に登れたらむしろその方がいい……。テントでボクと2人きりのときで、それ聞いてしまったら仕事ができなくなるから聞かなかったことにするわ、って彼には伝えましたけど」
いきなり登頂に成功するよりも2回目でリベンジした方がよりドラマチックだ……と演出家は考えていたようだ。
「あいつが本当に登りたいなら2回目はそれなりの準備をしてくるだろうな、という期待も少しはありました」
リベンジを目指す栗城さんが選んだのは、前回のメスナールートではなく、ネパール側から南東稜を登るノーマルルートだった。私は彼から「中継にはチベット側が適している」と聞いていたので、彼の死後その足跡をたどるまで2回目以降もチベット側から挑戦し続けたのだと思い込んでいた。技術スタッフがネパール側から電波を送る手だてを考えたのだろう。
■「栗城が一人で死ぬ分にはいいけど、周りを死なせちゃいけない」
エベレストに出発する前、森下さんは栗城さんを酪農学園大学のトレーニング壁に誘ったという。ところが、
「あいつ、上まで行けないんですよ、1年生でも登れるのに」
その1年生も「テレビに出ている有名な栗城さんがこの壁を登れないなんて……」と困惑していたそうだ。
「その前は冬に羊蹄山(1898メートル)に行ったんですけど、あいつ、ボクからどんどん遅れて、結局7合目ぐらいで下りることにしました」
リベンジを口にしながら、栗城さんは技術も体力も前年を下回っていた。
「1回目にあれだけ悔しがってたのは何だったの? 今まで何してたの? って……呆れましたね」
※長文の為以下出典先で