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日本史上、最も優れた将軍・軍事指揮官って誰?


36: 名無しさん@おーぷん 2015/12/29(火)18:01:24 ID:Y8N

圧倒的戦力差でも、近代兵器だと少数側が勝ち残ってもおかしくないイメージがあるわ。
兵器の質や兵士の質さえも覆すような兵法を使った指揮官とかいないんか?




38: 名無しさん@おーぷん 2015/12/29(火)18:02:43 ID:Ouw

>>36
伝承かもしれんけど白井城の戦いで上杉謙信を退けた白井浄三入道かな
謙信が臼井城を囲んだとき、白井浄三がたまたま在城していたことが情勢を変えた。 落城寸前、原胤貞より指揮を託された浄三は「このたび大敵発向すといえども、さらに恐れるべからず。敵陣の上に立つ気は、いずれも殺気にして囚老にして消える。味方の陣中に立つ軍気はみな律儀に王相に消える間、敵は敗軍疑いなし」(『北条記』)と兵を鼓舞した。浄三は兵の士気を高め好機をひたすら待った。 3月26日、ついに謙信は総攻撃を命じた。『北条記』は、その言葉を「これほどの小城、何程の事かあるべき。唯一攻めに揉み落とせ」と記している。これに対し浄三は、城門を全開にし城兵による総攻撃を命じたのである。まず原大蔵丞と高城胤辰の先陣が突入し、疲れが見えたところで二陣の平山・酒井が錐で穴を空けるがごとく道をつくり、松田康郷・佐久間率いる三陣が敵本営のわずかなところにまで迫った。特に三陣の松田康郷の活躍すさまじく「赤鬼」[1]というあだ名に恥じぬ鬼神のはたらきであった。これにより上杉軍はいったん撤退を余儀なくされる。

翌日、謙信は敵が勢いに乗って攻め込んでくると考え本陣で待ち受けたが、いっこうに攻め込んでこない。いぶかしがる謙信に海野隼人正は「本日は千悔日と言い、先に行動を起こすと敗れるという日です。敵城には白井浄三という名軍師がおり、おそらくその指図でしょう」と伝えた。業を煮やした謙信は逆に出陣を決意。部下に城攻めを命じた。先鋒の長尾顕長(長尾当長の間違いと思われる)は城の逆茂木を壊し濠を越え大手門まで迫ったが、これを見越していた浄三に城壁を崩され兵士数百名を一瞬で下敷きにされてしまう。驚いた謙信は全軍を撤退させようとしたが、勝機と見た浄三がそれを許さず城兵に総攻撃を命じたのである。雪崩のように崩れ落ちる上杉の軍勢を北条長国や新発田治長が良くつなぎ止め撤退戦を行うが、それでもかなり戦死者が出た。後北条方の古河公方足利義氏などは上杉の死傷者は5千人以上と語っている。謙信のあまりの惨敗のためか『謙信公御年譜』(謙信の伝記)にも記録されなかったほどである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E4%BA%95%E8%83%A4%E6%B2%BB




43: 名無しさん@おーぷん 2015/12/29(火)18:07:29 ID:Y8N

>>38
凄いな。最初の捨て身の突撃を実行する所が。これの成功した時点で上杉は術中にはまっとるやん。





41: 名無しさん@おーぷん 2015/12/29(火)18:04:14 ID:X7G

>>36
ペリリュー島の中川州男大佐とか?

最終的には負けてるけど




45: 名無しさん@おーぷん 2015/12/29(火)18:09:10 ID:Y8N

>>41
最終的に負けるとイメージ悪いなあ




46: 名無しさん@おーぷん 2015/12/29(火)18:10:21 ID:X7G

>>45
負けるって言っても戦力差が違い過ぎる上に2ヶ月半耐えた太平洋戦争屈指の激戦やぞ




40: 名無しさん@おーぷん 2015/12/29(火)18:03:49 ID:wad

ゲリラなど少数には少数なりの戦術があるだろうし指揮という意味では将の負担はそこまででもないしやはり大軍を運用できてこそ優れた将軍なんでは?




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