トップページに戻る

【酷い】子供の頃、うちは貧乏だと思っていた。しかし父は人並みに給料をもらっており、半分は祖母に半分はすべて父の小遣いにしていた事を聞いた


292: 名無しさん@おーぷん 2019/02/08(金)12:24:57 ID:???

従姉妹に助けてもらって、通学の服はなんとかなった。
ただ、体操着もジャージのみ指定で他は自由、私には体育のときに着る真っ白なTシャツと黒か紺の短パンがなかった。
中学の体操着は元々お古で着古しすぎて黄ばんでおり、脇の下も何度かほつれを縫ったあとがある代物だった。下はブルマの時代。
これは盲点だった。初めての体育がある日の前日、私はかなり焦っていた。自分で買うお金はない。
もう従姉妹に迷惑はかけられないと思い、学校の公衆電話から母の職場に電話してTシャツと短パンを買ってきてほしいと頼んだ。
といっても母に直接言えたわけではなく、電話を受けた事務のお姉さんに言づてをお願いした。
バイトを終え帰宅するとすでに両親は家にいた。
そしてTシャツと紺色の短パンを差し出してきた。「お父さんのがあるから」と言いながら。
顔の前に突きつけられたそれを手に取ると、Tシャツは確かにTシャツなんだけど、うっすら黄ばんでいて生地もパサパサしていた。
短パンは男性用なので前が開いていた。




293: 名無しさん@おーぷん 2019/02/08(金)12:25:17 ID:???

どうしてなのかは未だにわからない。
でもこのとき私は生まれて初めて目が覚めたような感覚を覚えた。
ずっともやがかかって視界不良だった家がよく見えた。
『この家は何かがおかしい』と、はっきり思った。
けれど『何かが』と思っただけで具体的にはわからない、何をどうすればいいのかまで思い至らない。
フリーズしている私をじっと見つめていた母に、ありがとうと言って自室に戻る。
築百年近い家は無駄に部屋数があり、二階の一番奥が私の部屋だった。
中学にあがるまで、そこは一体何が詰め込まれているのかわからない十畳もある物置だった。
真っ暗で窓もなかったそこを、父が壁をぶち抜いて窓を作り、合板で二部屋に分け私と弟に与えた。
その夜、私は裁縫セットを引っ張り出して、短パンの前部分を縫い合わせた。
よくわからない涙がでた。
その後、初のバイト代を貰ったその足で私は真っ先にTシャツと短パンを買った。
当時は現金支給だったので嬉しくて嬉しくて、家族にも喜んでほしくてケーキも買った。
バイト代はかなり減ってしまったけれど、洋服は従姉妹にもらったものがあるし問題ないと思った。




294: 名無しさん@おーぷん 2019/02/08(金)12:25:37 ID:???

ゴールデンウィーク明け、ある運動部に入った。
なるべく自前の用具が必要ないところを選んだ。
ところが、学年ごとに部活用のジャージを注文・購入しなければならないと言われる。
価格は残りのバイト代でぎりぎりなんとかなった。
それを母に伝えると「それくらい出してあげるのに」と言われる。
千円しないTシャツを買ってくれないのに、一万円以上するジャージは買うと言う母の言葉に私は少し戸惑った。
でもこういうこともよくあった。母の中では矛盾じゃない。
素直に受け取ってお礼を言った。なぜかそのジャージは今もとってある。





295: 名無しさん@おーぷん 2019/02/08(金)12:25:57 ID:???

母はヒステリックではないけれど、前述したようにたまに昨日とは別人なんじゃないか?と思うことがよくあった。
大人になって私自身も娘を持った。進学の為離れて暮らしているけれど、その娘もこの春就職する。
つまり私は現在いい年のおばさんで、母がする昔話を自分のこととしてというより物語のように聞ける心境になっていた。
母は、自分の情緒がおかしかったことを自覚していた。
言ってることが昨日と今日で違うことも、子供達が戸惑っていることも、頭ではわかっていたそうだ。
だけどとにかく余裕がなかった、と。そして昔話をするたび私に謝る。
父も健在で、性格はあまり変わらないけれど、私が二十歳を過ぎて遅い反抗期を迎えたとき一度喧嘩してからキィキィ言うことは少なくなった。
でもそれよりも十年以上前に祖母が他界したことが、父にとっては転換期になったように思う。
父は子供の頃から母である祖母にほとんど叱られることなく育ったのだという。
祖母は昔から、誰彼かまわず息子の自慢をする人だった。
私にもそう言って聞かせていた。「お父さんは立派な人だ、偉いんだ」って。
そうなのか、と思いながらも父との良い思い出がほぼ無いに等しい私は納得出来ない気持ちもあった。




296: 名無しさん@おーぷん 2019/02/08(金)12:26:13 ID:???

そして昨年末に母から衝撃的な昔語りを聞くことになる。
父は普通に真面目に勤めていたので給料もボーナスも人並みにはもらっていたそうだ。
けれどその半分を祖母に渡し、半分はすべて自分の小遣いだった。
母が私の娘の子守をしてくれるようになるまでの二十数年間、うちの生活費は母の稼ぎから出ていたのだという。
私が学生時代どんなにバイトで稼いでも、それを寄越せと言ったことはなかった。
母は自分が出すのが当たり前と思っていたそうだ。そういうものなんだ、と。
私に話して聞かせたときも、本当に何気なくて、ひとつも疑問に思っていなかった。
私は文字通り、開いた口がふさがらずしばし呆然としていた。
まず最初に思ったのは「うちは貧乏なんかじゃなかった」だった。
それから「じゃあなんであんなにお金に困っていたのか」と思った。
結論をいうと、祖母に渡したお金はほぼ宗教団体に貢がれていた。
でも、少ないながらも年金は満額貯金していたので、家を建て替えるとなったとき祖母が百万円出した。
ばあちゃんに感謝しろよと父に言われ、お父さんに感謝しなさいと祖母に言われ、私は素直に感謝した。
その頃祖父は既に他界していたので、祖父の財産も祖母は持っていたはずなんだけれど、それもおそらく宗教に消えたのだろう。
祖母が亡くなったとき、通帳には直近の年金分だけ、他にタンス貯金が数万円見つかったそうだ。
借金がなかったことを幸いだと思うしかなかったと母は言った。




297: 名無しさん@おーぷん 2019/02/08(金)12:26:38 ID:???

現在も父は母に対して怒り声で対応する場面が多々ある。
普通の会話で母が聞き返しただけでもそうなる。
そしてたまに思い出したように、自分の母親(祖母)の思い出話をする。
子供時代のことが多いらしい。
「あの頃は大変だったけど、かーちゃん(祖母)はばーちゃん(曾祖母)にいびられながらよくやった」と。
ちなみに祖母は、思ったことを言わずにいられない性格で、且つ意地悪なところがあった。
だから当然母は嫁いびりに遭っていた。父には見えていなかったか見て見ぬふりをしたんだろうけれど。
そんなこともあったので、私は祖母が好きではなかった。
私の気持ちはともかく、母は怒っていい。
父はたびたび「おれがきちんと貯金したおかげで今があるんだぞ」と母に言うそうだ。
私もたまに言われていた。「おれは無駄使いしないから金があるんだ」と。
それに対して私は適当に相槌を打っていたけれど、母は反論していいと思う。
あなたがお金を貯められたのは私が生活費を出していたからだ、と。
あなたは一円たりとも家にお金を入れたことは無い、と言っていい。
父に祖母自慢とお金の話をされると腹が立つと母は言う。
ならそのとき、今度そういう話をされたら言えばいいよと伝えた。
言える日が来るかはわからない。母が言う前に私が言ってしまうかもしれない。




298: 名無しさん@おーぷん 2019/02/08(金)12:26:54 ID:???

母から聞いたことをどんなに考えても腑に落ちないし、惨めだった思い出は消えない。
だけど、当時漠然とおかしいと思っていたことの答えが出た気がして、反面すっきりしていたりもする。
母は本当に本当に余裕がなかった。
父は当然と思ってそうしていた。祖母も。
祖父は、どうだったんだろう。今となってはわからない。
でも、うちにあった目新しいもの(トースターやビデオデッキ等)は、ある日突然祖父が持ち帰ってきたものだった。
無駄遣いだと言う祖母を無視して私たちに披露してくれた。
だからつまりそういうことだったのだろう。
祖父はわかっていた。でも祖母と父に強く言えない償いだったんだと思う。
そんな私の考えを、少しだけ母に言ったことがある。
すると母は「爺ちゃんはたまに、病院に迎えに行くと帰り道おいしいものを買ってくれたわー」と言った。
ソフトクリームだとか、たい焼きだとか、すぐ食べられるやつ。
食べたことがバレないやつ。




[6]次のページ

[4]前のページ

[5]5ページ進む

[1]検索結果に戻る

通報・削除依頼 | 出典:http://2ch.sc


検索ワード

子供 | うち | 貧乏 | | 人並み | 給料 | 祖母 | 小遣い | いた事 |