「秀吉の朝鮮出兵はボロ負け!!」ワイ「武将がたくさん討ち取られたんやろなぁ…」→結果…
23: それでも動く名無し 2023/05/04(木) 03:07:33.70 ID:uajoKTdgM
>>12
向こうからしたただの奴隷やしなぁ
13: それでも動く名無し 2023/05/04(木) 03:02:42.29 ID:a/HVR5vK0
万暦帝とかいうレジェンド級の無能が珍しくやる気になったらしい出兵
22: それでも動く名無し 2023/05/04(木) 03:06:53.01 ID:ik/2TuF50
>>13
おかげで明の滅亡が早まった模様w
17: それでも動く名無し 2023/05/04(木) 03:04:27.08 ID:5tgvW+9WM
この時代に20万人を海外に展開するとかおかしい
現代でもそんなことできる国アメリカ軍くらいしかないぞ
20: それでも動く名無し 2023/05/04(木) 03:05:59.21 ID:TK1J0Sqa0
まだ東日本の大名が控えてるもんな
まあそいつらも渡ってたらもっと早く兵糧が切れてただろうが
7: それでも動く名無し 2023/05/04(木) 02:58:20.28 ID:WE5S3Ad2d
加藤清正「いける所までいく」
清正君ウラジオストク前まで行く
21: それでも動く名無し 2023/05/04(木) 03:06:38.86 ID:1K4qXALxM
清正くん行き過ぎて帰ってきたときに三成にボロくそ言われる
海汀倉の戦い
海汀倉の戦い(かいていそうのたたかい)は、文禄の役で韓克諴率いる朝鮮軍を加藤清正率いる日本軍が破った戦い。
背景
文禄1年(1592年)、文禄の役が始まり瞬く間に漢城を占領した日本軍は八道国割で咸鏡道の平定を加藤清正、鍋島直茂、相良頼房の二番隊の担当とした。二番隊は漢城を発して北進し、臨津江の戦いの後、6月初旬金郊駅で右折し安城の民を捕えて嚮導を命じ、谷山を経て老里峴を越える。
咸鏡南道兵使李渾は兵を率いてこれを迎撃しようとしたが、日本軍の先頭の兵を望見すると戦わずに潰走する。加藤清正は安辺に出て、ここに10余日留まった後、進んで永興に到る。ここで朝鮮人が立てた榜文には「二王子はこの道より北行した。」と書かれていた。鍋島直茂は留まって永興及び咸興付近を守備する。
加藤清正は進んで北青に至り相良頼房をここに置き、7月15・6日頃端川に入り家臣の九鬼広隆をここの守備とし付近の銀鉱を試掘させ、北進を継続する。 この頃、臨海君、順和君の朝鮮二王子は兵を募るため咸鏡道に赴いていたが、日本軍が迫ると摩天嶺を越え会寧に入った。
この記事を評価して戻る