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水木しげるの死んだ友人のエピソードがマジキチすぎるwwwwwwwww


40: 風吹けば名無し 2012/10/14(日) 20:38:19.05 ID:ooXrQjQe

戦地で腕失った時
数日して傷口が落ち着いてきた頃に失った腕の付け根から赤ん坊の匂いがしたとかいう話
https://livedoor.blogimg.jp/worldfusigi/imgs/f/6/f6186d25.jpg

軍隊時代

九死に一生を得て部隊に戻ると仲間達は喜んでくれたが、兵器を捨てて逃げた事を上官にとがめられ、「なぜ死なずに逃げたのか」と詰問され、「死に場所は見つけてやる」と言い捨てられた。

これまでは戦場でも何とか朗らかに振舞ってきた水木も、この件で流石に塞ぎこみ、これ以降は虚無主義的な考え方をするようになった。そんな陰惨な日々は続き、マラリアを発症、高熱で錯乱状態に陥ってジャングルを彷徨い歩き、危うく死にかけた。

追い討ちをかけるように敵機の爆撃で左腕に出血多量の重傷を負い、間の悪いことに血液型も忘れてしまっていたことで上官や仲間からの輸血処置も不可能となり、止血されるが左腕に死斑が出てしまい、延命処置として軍医によって麻酔のない状態で左腕の切断手術を受けるなど、絶体絶命な半死半生の状態へと追い込まれた。




42: 風吹けば名無し 2012/10/14(日) 20:38:48.69 ID:inmnZi8X

戦前の話やろ




43: 風吹けば名無し 2012/10/14(日) 20:39:02.41 ID:k91WV7h2

「戦争中、夜中に外でタバコ吸ってたら殴られた」って当たり前やろ





47: 風吹けば名無し 2012/10/14(日) 20:40:38.51 ID:AtqE3TDD

>>43
むしろ殴って止めてくれた上官に感謝やな…




51: 風吹けば名無し 2012/10/14(日) 20:42:52.70 ID:Fqzd9nVg

>>47
その代わり味方になってくれた上官や軍医も結構いた。
水木御大はビートたけしとも仲が良いが、何か魅力を感じる人物らしい。

軍隊時代

ニューブリテン島での戦争体験は、後の水木の描いた作品に多大な影響を与えている。

軍隊生活と馴染めなかった水木も、所属していた第2中隊中隊長である児玉清三中尉からは、その腕を買われて似顔絵を描く事をよく頼まれ、水木に事あるごとに言いがかりをつけては嬲ることしか考えない上官たちの中で、例外的に水木が個人として優しく接してもらえた人物だった。

同様に下士官の宮一郎軍曹や砂原勝己軍医大尉なども数少ない水木に親切に接してくれた上官で、水木が戦後復員して再会してからも交流が続いた人たちだった。




52: 風吹けば名無し 2012/10/14(日) 20:44:42.19 ID:ncynizaV

・死というものがどんなものかわからず、5歳の時に弟を海に落として死なせてみようとする。途中でばれてものすごく怒られた。

・あまりにもぼーっとしているので、小学校の入学を一年遅らされた。
・いつでもどこでもおならをすることが出来た。

・自宅に動物園を作ろうと兄弟で動物を集めまくるが、飼育が下手でみんな死なせてしまった。

・15歳で大阪の印刷所に働きに出るが、遅刻欠勤を繰り返して2ヶ月クビになる。その後も行く先々を短期でクビになる。

・東京芸大に進学希望を持ち、受験資格を得るためにまず大阪府立園芸学校に入ろうと受験する。
面接試験で志望理由を「東京芸大の受験資格を得るため」と正直に告白し、不合格となる。なおこの時の受験者数は51人で、合格者は50人だった。

・軍隊から徴兵を受け、入隊する前に死を意識してゲーテなど哲学書を読み漁る。

・入隊後、そのマイペース振りから将校と間違えられ風呂で年長兵から背中を流される。後でばれて思い切りひっぱたかれる。

・軍隊でラッパ係となるが全く拭けなかったため配置転換を受ける。「北か南か」と聞かれて「北は寒いから南」と答えて、激戦地ラバウルへ送られる。

・ラバウルまでの輸送中、敵船から魚雷攻撃を受ける。水中を泳ぐ魚雷を見て笑ってたらひっぱたかれる。




54: 風吹けば名無し 2012/10/14(日) 20:45:41.26 ID:ncynizaV

・ラバウルの司令官、今村均に「やけに太った兵隊だな」と言われる。なお終戦直後、今村均が全兵士に対して「一人残らず日本へ帰国させてみせる」という訓示を受け、なんとなく生きて帰れる実感がわいたと述べている。

・ラバウルの現地住民に聖書を読み聞かせるなど交流を深め、現地除隊してそのまま住もうかと考えた。

・帰国後、魚屋やタクシーのリース業など様々な商売に手を出し、その後紙芝居作家から貸本漫画家へとなる。

・貸本漫画家時代は極貧で、原稿料をもらうための電車代を質屋に借りる始末だった。

・40歳前に見合いから5日で結婚。見合いについては「嫁の隣にいる父親の顔が異常に長かったため、嫁の顔の長さが当時はわからなかった」と述べている。

・40歳を超えて初めて「テレビくん」がヒット作となる。その後「鬼太郎」の連載も始まって激務となり、このころのことを元アシスタントの池上遼一は、「前夜に誰かがもんじゃ焼きが食べたいなと言ったから、次の妖怪は『なんじゃもんじゃ』だと決めるくらい忙しかった」と述懐している。

・80年代にスランプとなり、「妖怪なんて非科学的なもん、いるわけないだろ」と漏らすほどピンチになる。ただ娘が修学旅行先で目々連を見たと言ったことから奇跡の復活を遂げる。

・86歳時、昼食にメガマックとポテトを完食。このほかピザなども丸々平らげている。
・宝塚の遊園地で鬼太郎のイベントがあったことを手塚治虫に八つ当たり気味に文句言われ、手塚の嫉妬深さを皮肉る「一番病」という作品を書く。手塚は手塚で水木に対抗して「どろろ」を書いた。

・手塚、石ノ森が早世したことについて「徹夜自慢は早死にする」と述べ、自分はマイペースでよく寝ていることをアピール。

・補聴器を一時期、聞こえる方の耳につけていた。




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